昭和54年11月09日 朝の御理解



 御神訓 一つ
 「縁談に相性を改め見合わすより 信の心を見合わせよ。」

 今日はこの縁談という事ではなくて、信の心を見合わせよとありますね。信の心それを信心の信という字が書いてあります。人偏に言ですね。普通は言偏に成るとか、あの真という字を書きますけれども、ここでは真の心というけれども、信の心を信心の信の心を真の心とま表現してあります。信の心というのはどういう心を言うのであろうか。昨日は戎浦さん所の奉斎式がございましたが、今度あちらへ御普請がま見事に出来て、私もあんなに大きなお家とは思わなかったけど。
 大きなお家でなかなか造りも、ま実に行き届いた神経の行き届いた建て方をしてあるお家でした。まぁそれこそ盛大にお祭りの奉仕をさして頂きましたが、あちらへ行って私が今度私がおかげを頂いて来た事の中に、あちらのすぐ戎浦さんの奥さんが勤めておる所の病院の院長さん夫婦というのが見えとりました。そすとその家を建てられた棟梁、いわゆる大工さんが見えておりました。
 私の控えに見えて、そしてあちらでお茶を差し上げておりましたが、まいろいろお話を、ま私の事を戎浦さんからいろいろ、大工さんの方も先生の方も聞いておられる模様で、又はテープやらで私の話を聞いて下さっておるので、あらかじめ私を知っておられたわけですけれども、その先生やらその大工さんのお話を聞いて、私本当に感心しました事はね。その病院の先生が言われる事はこういう事です。
 私は、も人が助かりさえすればいいと思うとりますという。もう私は驚いてしまいました。ここでこの先生から信心のない先生から、こんな事を聞こうとは思わなかった。まぁ医者は医は仁術というふうに、ま言われますけれども、この頃のお医者さんは仁術ではなくて算術だと皆が言うように、いうならば儲からなければ見らん。儲からなければ知らんと言った様な、金にならなければせんと言った様な、ま風潮があるのに、兎に角私は人が助かれば。
 だから他所で断られた、と言う様なのを私は見る事を自分の生き方、身上と致しておりますと言う話をなさいました。それでいてどんどん繁盛しておられるという事です。それから大工さんの話を聞きましたが。もう本当に素晴らしい設計というか、その間取りというか、いろいろ細かい神経が使ってあるのには、私感心しましたから、その事を申しましたら、いいえまだに出来ません。
 出来ませんけども、私はもう家を建てる時に頼まれたその方の一家が、喜んでさえ貰えればよいと思いますと言われた。これにも感心しました。もうそれを思いましたら晩が眠れん位にずうっとそのあそこも直そう、ここはこげんでどうじゃろうかと言う風に思いますと言われる。そりゃもう値段も聞いて私びっくりするように安いのには驚きましたが、そのま安い事は聞いとりましたけども、あんな立派なお家とは思わなかった。
 まぁいうなら節だらけの、まぁいうなら木材を使った値段が安いから、そげな段じゃない。それは素人の私には分かりませんけれども、それこそ立派なお家です。そしてそのいわゆる細かいところに神経を使ったいうならばお家です。使い勝手の良いお家です。それを建てた棟梁です。兎に角喜んでさえもらえば良いとこう言うのです。そのお医者さんの、もう助かりさえすりゃ良いという、それと一致しますね。もう絶対これならば繁盛するですやっぱ。
 そこでなら信心を頂いておる者の心情心根というものがです。お商売をするなら、もうお客さんが喜んでさえもらえれば、という店なら絶対私は繁盛すると言うのです。私がもうどうでもね。それこそ人が助かる事さえ出来ればとか、又は人が喜びさえすればとか、その喜びさえすればというだけではなくて、その事を思うたら晩も眠れん位に考えます、と言う。もう本当に信心のある者が、ね。
 本当にただ自分の我情我欲を願うたり頼んだり、おかげを受けるという事だけに信心をしておるという人達から、も本当にあのま見習わせて頂かなきゃならん。自分の思いを変えなければならん、という事を改めて思わせて頂いきます。私は信の心をまことの心というふうに表現しておられるのは、そういう内容のものではなかろうかと思うのです。同時に次にありますね。「子を産むはわが力で産むとは思うな みな親神の恵むところぞ」とあります。ね。
 私がする私がやるというものではなくて、もう神様のおかげを頂かなければ出来る事ではない。神様のおかげを頂かなければ、もう手はないと私は確信する心が信の心だと思いますね。信心の心の心をまことの心と、こう表現してあります。私が出来る私がやってあげた。私がしたじゃなくて、神様のおかげを頂かなければ、出来る事ではないという、いうならば自覚に立って、そして今申します人が助かる事さえ出来れば、人が喜んでさえ下されば、という心が私は信の心しんの心だと思います。信心の信です。
 私はこれにいわば取り組み、これに極めていく以外ないなと、もう昨夜帰らして頂いてから、その事ばっかりそれこそ思い続けました。今日は素晴らしい収穫をさせて頂いた。もう信心のない人達から聞かせて頂いて、いうなら繁盛一途を辿っておられるその建設屋さん、又はその病院という事をです。どういう所から繁盛するのか。医は仁術と言われるけれども最近では。やはり儲かる事のためならば、と言う様な風潮が高い中にです。人が助かる事さえ出来ればというお医者さん。
 もうこげなつは見ても返って金にならんからち言うごたるとは断る、というのが普通ですけれども、そういうのを私は来たら断らない。それがま自分の身上だという意味の話を聞かせて頂きました。もう成程繁盛する筈だと。戎浦さんの頭に信心のある婦長さんをやっぱり雇い入れなさっただけの、先生だなというふうに思いました。そういう所にはも必ず人が集まる。その院長さんに相応しい人材が集まってくるだろう。そ
 れでいてんならば、まどんこんされん位に儲かってる証拠には、病院がどんどん大きくなっていく、という事実なんです。もう奥さんが素晴らしいいうなら人柄でした。もうやはり人相に出とられますよね。あぁこの先生は立派な先生だなぁと思わして頂きましたら、言われる事がそういう事を言われる。同時に大工さんの建設屋さんも大工さん、というよりもやっぱり人格のある感じの、ま大工さんでしたけれども、私はその家を建て初めたら、晩眠らん位にいろいろと考える。
 もうそこの家の方達が喜んでさえもらえばという思いですから、値段もどこよりも安くするしまたんなら住まわれるのに、住み心地が良いようにいろいろと工夫を凝らします、と言われる、ね。人が助かる事さえ出来れば人が喜びさえすれば、という事に晩眠れん位に考えるというのです。
 信心させて頂く者がですね。やはりそういう心掛けにならして頂かなきゃならんと同時に、そのいうならば内容がです。子を産むに自分の力で産むとは思うな、みんな親神の恵むところと仰るように、何を自分がするというても、神様のおかげを頂かなければ出来ないんだという自覚です。いやあ私がやりますというのじゃなくて、それこそ無限の神力というものに、触れさせて頂いて人間心を取り、ね。人力を取り外して神力にすがっていく。そこから湧いてくる人力、ね。
 そんなら子供を産むのに、ただジィーッとしとってよいという事じゃない。やはり催しに催しが始まってくる。そこに自ずと気張らなければおれない、というそれが人力なんだ。それとても、いうならば神様から力ませて頂くのだ。もう兎に角神様のおかげを頂かなければ立ち行かん、というその心その心にです。なら内容が人が助かる事さえ出来れば、人が喜んでさえ下されば、という精神を今日は信の心と今日は聞いて頂いた。その信の心とは信心の信、という字を一字書いて信と仮名遣いが打ってあります。
 だからいうならば信心させて頂く者の心という事になるのです、ね。だからそのお医者さんとその建築屋さんの場合はです。人が喜んでさえ下さればとか、ね。人が助かる事さえ出来ればと、いうのは素晴らしいのですけれども、なら信心させて頂く者が悟りに悟らしてもらい、分かりに分からせて頂くギリギリのものは、我無力であるという事と、神様のおかげを頂かなければ出来る事ではない。
 これは信心をさして頂かなければ分からん。その院長さんやら建築屋さんがです。もし合楽の信心を頂かれて、そのいやぁ自分がしょったんじゃなかったな。神様のおかげを頂かなければ、実は出来る事じゃないなと、もし分かられたらいよいよ鬼に金棒でしょう。ね。だから私共がです。信心させて頂いて何を学び、どういう心の状態になっておるか、と。どうぞこれはね。もう特にお商売をなさる方達は、もうお客さんが喜んでさえもらえればよい、と言う様なあの考え方にならなければ繁盛はしませんよ。
 信心で繁盛という事は、これはですどういう生き方になったら、お客さんが喜んで下さるだろうかと、それこそ夜も眠らん位に考えるくらいに、自分の思いを集中するならばです。その集中する心は、神様に集中するに違いないです。それがお客さんが喜んで下さらない筈はないです。そしていわゆる我無力です。も神様のおかげを頂かなければ出来る事ではない。立ち行く事ではないという、この二つの心を今日は信の心というふうに聞いて頂きました。
   どうぞ。